2014年1月21日火曜日

あなたはいつもどのような自分でありたいですか?

いつもおおらかで、いつも機嫌よくいたい。


これはわたしの望みです。


いつもいつもそういられるわけではありませんが
わたしはいつもこう望んで、そうあるためにいろいろと努めてきました。

おおらかさ、寛容さから自分が離れてしまったときは
本当に自己嫌悪に陥ります。
そしてそういう自分に対して不機嫌になっていくのが常です。

特に家族、妻やまだ幼い息子に寛容でいられないときは本当に辛く悲しいもので
自分の厳格さや強情さをなんとかできないものか?
そもそも自分はどうしてこのような反応を即座にしてしまうのだろう?
と本気で考えました。


たくさんの建設的な手段がこれを緩和する助けとなりました。
しかし、このわたしの望みとは異なる
無意識的、習慣的<反応そのもの>はどうにもなりませんでした。

もともとわたしのアレクサンダーテクニックの学習は
自分自身のからだのうごきの探究心から始まりました。
ですが、学習が深まるにつれ
自分自身の思考や感情に訪れる変化を何度も経験しました。

はじめはとても不思議でしたが
このテクニックの原理のひとつである
「こころとからだは切り離すことができない統一のものである」
という考えをこれにより徐々に実感することができてきました。


最近、自分自身のからだに大きな変化が起きました。
これまでより、自分の背中が広く長くなった実感です。
それは発熱をして寝込むほどの過程でしたが
その後、わたしの家族に対する「反応」が変化していることに驚きました。

これはアレクサンダーテクニックを使って
「刺激」に対する「反応」を建設的に考え意識的に選択していく
というのとは違うもののように感じています。
そもそもこれまで反応していたそのものごとを
それまでのような「刺激」と認識することさえなくなっていたからです。

好奇心旺盛ないたずらっ子の息子はこれまでと何も変わりませんが
いつも同じようにわたしが反応していた刺激、例えば彼の「ちょっとした悪さ」を
刺激と捉えながらも、その反応を一生懸命抑制し行動を選び直す
といったものではなく
なんというか、反応自体をわたし自身がしなくなっていたのです。

いやもしかしたら「刺激」はあったのかもしれません。
でもこれまでの「刺激」とは全く質の違うものでした。
だからわたしはそれを「刺激」と感じなかったのかもしれません。


だから
わたしはずっと自分のありたいように
すなわちずっと機嫌よく、居続けることができました。
そして息子の「ちょっとした悪さ」ににこやかに対応することができました。

これはアレクサンダーテクニックを使い続けることで
わたしの心身の機能自体が変化したことによるものとわたしは考えています。
これは、アレクサンダーテクニックの有効性とその可能性を
これまで以上に大きく実感することができた体験でした。


アレクサンダーテクニックを学び続けるかたが
いつ、どのようなタイミングでこのような体験をするかは
到底申しあげることはできません。

でも、このようなこと
すなわち・・・これまでいつも同じように感じていた刺激の質が
全く違うもののように感じられるようなこと・・・は
その加減や種類は違えど
多かれ少なかれどなたにも起こりうること、と申しあげることは
不可能ではないような気はしています。


あなたは
いつもどのようなご自分でありたいですか?


そのあなたが望む有り様に近づく強力なお手伝いを
アレクサンダーテクニックはしてくれることでしょう。


そういう意味でもアレクサンダーテクニックは
「望みを叶える能力」と云えるとわたしは思っております。

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